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がんばる小学生

サッカー少年の家庭学習と本の記録

ほめることへの違和感について考えてみた。

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

昨日こんな記事を書きました。

この記事の中で、アドラー心理学では「ほめてもいけないし、叱ってもいけない」という立場をとる、ということについて触れました。これについてのわたしの思いも。

実はわたし、これを読んでホッとしたんです。なぜか?子供たちをほめるのが苦手だったから。どういう場面でほめればいいのか、なんていってほめればいいのか、あんまりほめられたことがないせいかサッパリわからなくて…。だから、ほめなくていいっていうのは、とても嬉しいことでした。

『嫌われる勇気』を読んだ。 - がんばる小学生

どうしてほめるのが苦手なんだろう?今までは「自分があまりほめられることなく育ったから」つまりほめてくれなかった親や家族のせいだと思い込んでいました。でも、アドラー的にはトラウマは否定されます。とすると、わたしは「ほめたくないからほめるのが苦手だと思いたい」ということかなぁと。

そう考えてみると、確かにそういうところがあるかもしれないって思いました。

例えば小さいことですが、ブログの記事に対して「これは良記事」というコメントがついているのをよく見かけます。きっとほめ言葉なんだろうなと思う一方で、もしわたしなら「これは良記事」といわれることで喜んだり、もっとがんばろうって思ったりしないことを考えると、使い方がむずかしい言葉だなと思っていました。

ほめるという行為には「能力のある人が、能力のない人に下す評価」という側面が含まれています。

岸見一郎・古賀史健 (2013). 嫌われる勇気 ダイヤモンド社 pp197

わたしは誰かに評価されたくて記事を書いているわけでも、評価したくて記事を読んでいるわけでもない。この一文を読んで「ああ、たしかに!それが違和感の正体かもしれない」と思いました。

わたしはほめるのが苦手なんじゃなくて、ほめたくないから苦手なんだな。

とはいえ、特に子育ての場面では「ほめることはいいこと」というのがポピュラーな考え方です。これまでおつきあいしてきた幼稚園のお母さんや先生たちは、子供をほめる方が圧倒的に多かったし、あまり子供をほめないわたしに「もっとほめてあげなよ」と言う人もいました。

ほめろっていわれてもなぁ。どんなときに、なにをどんな風にほめればいいのか、ほんとによくわからなくて困りました。

わたしがしていたことといえば、うれしいときには一緒に「わーい!」と喜ぶとか、がんばってる姿をみて「よくそこまでがんばれるなぁ。すごいな。ママもがんばろうかな。」と思うとか、嘘をつかれたときには悲しいといってワンワン泣くとか…。つまり、そのときどきの正直な気持ちを表してるだけ。

でもそれはそれでよかったのかもしれないなと、アドラー心理学にふれてみて思いました。

課題は「叱らないこと」

「ほめてはいけない」については楽にクリアできそうですが、問題は「叱ってはいけない」のほう。

わたしはこれまでかなり叱ったり、口出ししたりしてきました。あれだけ叱っておいていうのもなんですが、叱りながら「支配している感覚が怖い」と感じることがあります。制圧する感じ?それに慣れていく感じが怖い、気持ちよく感じる自分が怖い。でもやめられない。1度やってしまうと癖になるというか、ある種の中毒性があるんじゃないかという気がします。わたしだけかもしれないけど。

わたしの課題はそれをやめる勇気を持つ、ということなんだろうな〜。

ということで、1日目はなんとか叱らずに過ごせました。よし。明日も続けてみよう。

そして次はこれが読みたいです。

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

おしまい。