がんばるブラザーズ

子供たちの家庭学習やサッカーの記録。

統合失調症の母を持つ子供の話 (4)

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今回は大学時代から今までの話を書きます。

大学時代のわたし

大学進学を機に実家を出たわたしを待ち受けていたのは、自由と孤独だった。祖父にどれだけ支配されてきたか、母にどれだけ遠慮して暮らしてきたか。薄々感づいてはいたけれど、離れて暮らすようになってハッキリと自覚した。最初のうちは、タガが外れたように遊びまわったけれど、それも長続きはしなかった。人と会うのが億劫になり、大学を休みがちになって、あわや留年かというところまでいってしまった。

毎日のようにかかってくる母からの電話は、無視すると必ず「どこに行ってた?誰と?何をしていた?」と質問攻めの留守電が鬼のような回数入るので、なるべく差し障りのない内容で、淡々と話すことを心がけていた。祖父からも「次、いつ帰ってくるのか。お母さんが会いたがっているから帰ってこい」と頻繁に電話がかかってきた。電話のベルが鳴るたびに心臓がぎゅうっとなるのは、この頃から。今でも本当に苦手だ。

夫との出会い、そして結婚まで

大学2年の頃、インターネットを始めた。見よう見まねでホームページを作って、イラストやポエム(!)、日記、写真などを公開するようになった。なんの知識もなかったけれど、いいなと思うホームページのソースをコピーして、見比べながら、HTMLの書き方も覚えた。そのつながりで出会ったのが、今の夫だ。

お互いのホームページを行き来して、感想を言い合ったり、他愛のないことを互いの掲示板でお話したりするうちに、メールをするようになり、チャットで話すようになっていった。夫と話していると、嫌なことが全部忘れられるような気持ちになったし、安直な言い方だけど、心が安らいだ。実際会ってみてもその印象は変わらなかった。大学4年の終わり、卒業間近の春に、わたしたちは交際をはじめた。

でも、家のことを知ったらひくだろうな。きっと重い女だと思われるだろうな。いつ別れを切り出されるかとびくびくしていたわたしの心配をよそに、夫はいつも優しく励まし、支えてくれた。この人とならやっていけるかもと思った。そんなとき、母が突然わたしの職場にやってきて、その後数日間行方がわからなくなるという事件が起きた。

わたしは、実家から遠く離れた町にある大学へ進学し、そのままその町で就職した。当時勤めていた病院に、ある日突然母がやってきた。ちょうど日勤だったわたしは、受付で大声をあげている女性が自分の母親だとわかった瞬間、持っていたボードを床に落としてしまった。 まさか!なんで? 母を病棟から連れ出して、タクシー乗り場まで連れて行き、「わたしは仕事中だし、今日は夜勤です。家に帰って。急に来られても困るの」と告げてタクシーのドアを閉めた。 自分が苦労して築いた生活を壊されたくなかった。

統合失調症の母を持つ子供の話 (1) - がんばる小学生

正直「もう無理だなぁ」と思った。このままだと、わたしの家族のゴタゴタに夫を巻き込んでしまう。巻き込んでしまってから「無理」と言われるよりも、自分から去った方がいいんじゃないかと思った。勤めていた病院はやめて、地元に戻り、祖父母と母と一緒に暮らしながら面倒をみる生活をするしかないんだ。そうなったらもう、夫との交際は続けられない。

別れようと言ったわたしに、夫は「一緒にがんばろう」と言ってくれた。何度も何度もわたしが「うん」というまで言い続けてくれた夫がいなければ、今のわたしはない。それから約1年後に、わたしたちは夫婦になった。

ひっそりとした結婚

夫が住む街へ引っ越し、小さなボロアパートを借りて一緒に住み始めたわたしたちは、どこからどうみても幸せそうな新婚さんだったと思う。もちろん幸せだったけれど、大きな罪悪感を背負った幸せだった。特に、夫のご両親に対して申し訳ないという気持ちが強かった。なぜなら、わたしの都合に付き合わせる形で、勝手に結婚してしまったからだ。それでも、ふたりとも事情を飲み込んでくれて、「よろしくね」と優しく言ってくれた。だから余計に、申し訳なかった。そのふたりはもういない。恩返しもなにもできないまま、亡くなってしまった。

そんな生活をはじめてひと月後くらいに、ようやく実家へ報告の電話をいれた。案の定、激怒した祖父に「お前には金輪際うちの敷居はまたがせん!お前が見初めた相手となんか続くわけがない。俺が見つけてやるって言っただろうが。もってもせいぜい3年だ!そのときに泣きついてきてもしらんぞ!」と怒鳴られ、電話は切られた。母は泣きながら「帰ってきて。お願いだから、そんな結婚なんてやめて帰ってきて」と言った。

それでも、新婚生活はとても楽しかった。いろんなところに出かけて、いろんなものを食べて、笑って。実家の人たちのことは常に心にあったけれど、後悔はなかった。とはいえ、罪悪感が消えたわけではない。むしろ、幸せだなと思えば思うほど、それはどんどん強くなっていった。

祖父母が亡くなってからのこと

新婚生活がもうすぐ1年を迎えようという頃、祖父が倒れた。わたしは仕事を辞めて、祖父と祖母*1の世話だけでなく、どんどん具合が悪くなっていく母の世話をせざるを得なかった。つもりにつもっていた罪悪感がここで力を発揮した。バチが当たったんだと思った。わたしが心配をかけたからこうなった。だからわたしが頑張るのは当たり前。

祖父母の世話の合間をぬって、心療内科から近くの精神科へ転院させ、やっと入院までこぎつけた数日後に、祖父が亡くなった。もちろん悲しみはあったけれど、どちらかというとホッとした。ひとつ仕事が減った、と。

祖父が亡くなり、後を追うようにして祖母が亡くなると、叔母も近所の人たちも、それから病院の先生や看護師さんたちも、みんな口を揃えて「娘なんだから、お母さんのこと頼むよ」「娘さんがいてよかった」「娘なんだから、親をみるのは当然だろう」「こっちに帰ってこい、それが無理なら引き取れ」と好き勝手なことを言い始めた。

「しっかりして」 「娘なんだから」 「面倒みるのは当然」 「看護師なんだから」

ただの言葉なのに、わたしにとっては浮上できなくなるくらい重いおもしとなった。毎日、閉鎖病棟に通って母の相手をした。鉄格子の向こうに入っていくためには、明るく笑って、気合をいれる必要があった。そんな生活が長続きするわけもなく、母の病状が落ち着いてきた頃、体調を崩して夫のもとへ帰った。一時的に帰るつもりだったが、その生活から離れたとたん、魔法がとけたみたいに力が抜けてしまった。それからしばらく実家へ戻ることができなかった。

子供が生まれてからのこと

子供が生まれてから今まで、わたしは一度も実家には帰っていない。自分だけなら我慢できるけれど、子供にまで同じ思いをさせるのは絶対に嫌だった。その間に、母は何度も具合が悪くなり、入退院を繰り返した。そのたびに、わたしのもとには近所の人や叔母、訪問看護の看護師さん、主治医、警察など、さまざまな人から連絡がきた。

「娘のくせに病気の親を放っておくなんて人間のすることじゃない!」 「こっちに帰ってこい、今すぐ帰ってこい。顔だして迷惑かけたことを謝れ」 「娘さんが来なければ入院させられません」 「大人なんだから自分の親に責任をもて」 「子供を連れて帰って来ればいいだろう!誰だってそうしてるじゃないか!」

何度も何度も電話口で怒鳴られ、罵られた。最初は丁寧だった医療スタッフもだんだんわたしを責め始めた。近所の人からの留守電には耳を覆いたくなるようなメッセージが連続して入っていたし、叔母からは罵詈雑言で埋め尽くされた分厚い手紙が届いたりもした。

そんなとき、矢面に立ってくれたのは夫だった。理不尽な言葉に対して反論し、わたし以上に怒ってくれた。わたしにも、母の世話をしなくちゃいけないという思いはもちろんあった。でも、体がどうしても動かなかったのだ。本当に、本当にいやだと心が拒否するときは、体が動かなくなるというのを、このとき初めて知った。

まとめ

子供の頃はただ耐えればよかったけれど、大人になると今度は「責任をもて、責任をとれ」といわれるようになった。我慢して我慢して、やっと自由になったと思ったのに、待っていたのは死ぬまで続く「子供としての責任」だなんて、わたしは一体なんのために生まれてきたんだ?母を一生世話するため?そんな人生はいやだと思った。

さて。だらだらと書いてきた自分史のような話も、次で終わり。書こうと思ったきっかけについて、それから今わたしが思っていることについて書いて終わりにしたいと思います。

どよんとした気持ちにさせてしまって申し訳ないので、次男の立派な書き初めをはっておきますね!元気でるよ。

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おしまい。

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*1:老保施設に入所していたんだけど、祖父が対応に激怒して退所。その後、家で介護していたらしい。